今、歯医者に通っている。
子供のころ、歯医者さんという言葉の響きはあたかも拷問係と同じ意味合いを持ったものだったが、大人になってからは、非常に興味深い職業として、通うのが楽しみな場所となった。それも、何ヵ所か違う医院を回ってみると、それぞれが実に個性的な顔を持っていることがわかって面白い。
以前通っていたところは、"噛み合わせ"のことをやたら重要視し、虫歯は畢竟(ひっきょう)、噛み合わせの悪さがモトで起こるのです、と断言し、私はそのおかげで、何本もの、さして悪くもない歯を治療させられた。今はなんでもなくとも、この噛み合わせ状態では、将来、必ずこの歯は虫歯になるから、今のうちに治療しておいた方がいい、という意見だった。
まあ、腕は悪くない先生だったが、やはり悪くない歯をいじくられるのはイヤだったので、知り合いの紹介で別の歯医者に通いなおすことになった。
今度の先生は、これは"歯茎の健康"を全てのものの上に置く学説の提唱者であった。
「歯茎をしっかり健康にしなければ、いくら虫歯を治しても、またすぐ虫歯になる。意味がないんです。歯茎をまず、きちんと健康な状態にすることが第一だ」
と高らかに宣言し、歯そのものの治療はほったらかしで、歯茎を徹底して検査されている。行くと女性の歯科衛生士さんがいて、この人が歯茎と歯の間に細い針のようなものを差し入れ、いわゆる"歯周ポケット"の深さを計る。これだけで、チクチクとしてかなり痛痒い。そして、それから歯茎の健康のため、歯垢、歯石を、長い時間かけて、丁寧に除去してくれるのである。
読者のみなさんは、歯石の除去というものの経験がおありだろうか。最近は、電気式の歯石除去装置もあるが、この衛生士さんは、そのようなものは使わない。昔ながらの金属性のスクレーバー(掻き取り器)で、がりがりがり、と歯の周囲を引っ掻き、歯石を取り除く。原始的だが、これが一番なのだそうだ。
歯石は歯茎と歯が接触している周囲に多く付着している。だから、歯石除去のときは、歯茎をかなり傷つけることになる。しかし彼女はもう、慣れたもので、血ぐらい出たってまるで躊躇しない。思いきりがりがりとやる。歯石のつきやすい部分を手鏡で確認させられたことがあり、ここを歯ブラシでしっかりと磨くように、と指示されるのだが、そのとき鏡に写ったわが口の中のスプラッタな状況に、思わず、
「おわ」
と叫んでしまったほどだった(叫び声が変なのは、口を開いたまま叫んだからである)。
言うのを忘れたが、その衛生士さんは、年ごろで言うなら二十三、四。色の白い、皮膚のきれいな、目のぱっちりと大きい(残念ながらそこから下の部分は大きなマスクに覆われているが)チャーミングなお嬢さんである。普段は虫も殺さないであろうそのお嬢さんが、いったん白衣に身を包んだとたん、職業意識の固まりとなり、人の口にカギ針を突っ込み、ガリガリと盛大な音を立てて(まあ、これは直接頭ガイ骨に響くから私には大きく聞こえるので、実際はそんな音はしないだろうが)、患者の口の中を血だらけにするのだ。こちらはと言えば、治療台の上に体を固定されて、そんな所行をされても動くことも、声をあげることも出来ないまま……。
いつしかこの歯科医に通ううち、私は自分の中のM感覚を刺激されてしまったらしい。歯石除去をくり返すうち、今日はあまり血が出ない、というような日は、何か物足りなくなってしまっている自分に気がついたのである。もっといじめて、ボクの口にいろんな器具を突っ込んで、とお願いしたくなる。なんだか、世の中の歯医者フェチの人の気持ちがわかるような気がした。"歯医者フェチ"なんてものがあるのか、と、真面目な読者はお思いになるかもしれないが、実は意外に多いらしい。論より証拠、今年の5月に某大手新聞社の社員が長野県松本市で、勤務中に、支局近くの歯医者さんの二階ベランダにのぞき目的で侵入して現行犯逮捕され、
「インターネットの歯科医院案内のホームページを見ているうちに、優しく応対してくれる歯科医の女性に間近で接したくなった」
と供述したという。
呆れかえることは呆れかえるが、しかし、なお、この29歳新聞記者の気持ちのほんの一端は、今の私になら理解できるかもしれないと思う。歯というものは、いったんそう気付いてしまえば、おそろしくエロチックな器官なのである。前に女性器想像図のサイトを紹介したときに、女性器に歯が生えていて男のナニを食いちぎる、という民間信仰のことを紹介したが、まさに人間の口を歯科医の位置から見れば、それは縦に裂けた女性器、それも歯のある女性器なのだ(女性器と口の形状の相似については動物学者のデズモンド・モリスが夙<つと>に指摘している)。そして、その女性器が血だらけになる。これが何の隠喩かは、小学生にだってわかろうというものだ。歯医者での治療は、男性に、自分が女性となっての陵辱を味わわせてくれるという、極めて倒錯的な行為なのである。ひょっとして、ボク目覚めちゃったのかしら、と、ちょっと心配なのである。
『ART AND THE DENTIST』という大著(1982年、書林発行)がいま、手許にあるが、それによると歯医者の守護聖人はアレキサンドリアの聖女アポローニアだそうである。彼女はローマ政府にキリスト教からの改宗を命じられ、これをこばんだので、歯を全部抜かれる拷問を受けて殉教した。彼女が柱にくくりつけられ、今まさに巨大なヤットコで歯を抜かれようとしている殉教図は非常にエロチックだが、そのために死後、歯医者の守護聖人となった彼女の姿は、逆にヤットコを片手に持ち、それに今、抜いたばかりの歯をはさんでいる図として描かれる。もう片方の手には、抜いた歯を並べた盆をかかげているのである。
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